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50. 勉強の哲学 来たるべきバカのために

今日は、千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』です。

勉強をすることはノリが悪くなること、周りから浮いてしまうこと。それを理解したうえでも著者は勉強をしようと分かりやすく説明しています。

冒頭から最後まで説明が丁寧に少しずつ進んで、難しい話でも読者は取り残されることなく読むことができると思います。

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目次

この本で分かること

  • 「勉強するとはどういうことなのか」

勉強を深めることには大きなリスクもあるが、それを分かった上で勉強深めるとはどういうことなのか、深める方法をすることが出来ます。

むしろ、真に勉強を深めるために、変な言い方ですが、勉強のマイナス面を説明することになるでしょう。

本書は、無理に勉強を強いるものではありません。

読む目的

  • 「勉強を質を上げる」

色んなことに興味があるけど、すべてに手を出していてはどれも中途半端になってしまうと最近感じているので、何をどのように勉強するかの参考にする為、勉強とは何なのかを考える参考にしようと思いました。

このブログでは、建築設計を軸に世の中により豊かな瞬間を増やす為に、2025年から空間づくりを学びに再進学する予定の一般会社員が将来、活躍していく為に学んだことを記録しています。


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勉強を「有限化」する

情報にあふれた社会ではいかに取り入れる情報を取捨選択し、制限し、「有限化」するかが大事になる。

無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されていくのではなく。
「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。

勉強には大きなリスクがある

勉強を深めることは本書の言い方ではノリが悪くなることである、ロクにならない一面がある。

そういうリスクもあるし、いまの生き方で十分楽しくやれているのなら、それ以上「深く勉強しない」のは、それでいいと思うのです。
 生きてて楽しいのが一番だからです。

生きてて楽しいのが一番であり、勉強のリスクを熟知している人が伝える、「勉強とは何か」「勉強の仕方」は知りたくなりますね。

そもそも、生きてて勉強していない人はおらず、生活の中で必ず何かを学んでいる。
「深く」勉強しなくても生きていける。

それは流れに身をまかす、周りに合わせて動く生き方であり、「ノリ」のいい生き方です。

深く勉強することで流れの中で立ち止まってみる。
つまりノリが悪くなるということなのです。

そして、ノリが悪くなることを経て「新たらしいノリ」に移ることが「深い」勉強の仕方であるといえます。

まず、勉強とは、獲得ではないと考えてください。
勉強とは喪失することです。

単純にバカなのち。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。
いったん、昔の自分がいなくなる試練を通過する。これが、第二段階。
しかしその先で、来るべきバカに変身する。第三段階。

人間はVR世界に生きている

言語はある環境においてなんとなく紐づけられた意味で使われているものであって違う環境では違う意味で使われていると厳密にはとらえることが出来る。

言語の必然性はなく、人間は「言語的なVR」を生きているのです。

 言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。

環境に置いてノっているというのは、言語的なVRを生きているということである。

そして、言語の他の環境における可能性、言語の他社性を考えることが勉強することだということなのです。

勉強する過程では2つのノリのあいだで居心地の悪い思いをするのは当たり前といえる。

言語それ自体に触れる

これまでの環境とは違う言語の使い方を学ぶとき、まるでそれが不思議な呪文のようにカタカナで聞こえることがある。

例えば、他者という言葉。フランス現代思想という環境では物も含め自分以外の全てのものを指します。今までフランス現代思想を知らなかった人によっては違和感があり、タシャと聞こえる

これが「言語それ自体」である。
洗濯機が壊れ、洗濯という機能を失った瞬間にそこに異質な物質として佇む感覚と同じ。

わざわざ言っている感、言葉自体を使うことで、言語の無限の可能性を描く。こうして無限の可能性を言葉にしてみるのです。これは文学とも言えます。

 文学という極論から逆に考えてみてほしいのですが、「私は上海で働く」とか「貧困に苦しむ人がいない世界」だって、詩じゃないでしょうか?まだ現実ではない可能性を形にしている。
 夢や希望を抱くことができるのは、言語を環境から切り離して操作できるからである。

だからと言って、環境における言語を批判的に見るだけではいけない。
なぜなら、批判的に見るというノリができてしまい、それは元の環境との共存関係であり、結局は環境の中にいることになる。

そうでなく、環境から一歩引いた視点で見つめ、言語それ自体=玩具的な言語使用にウェイトを移すのです。言語自体を扱うことで可能性を開く。

たとえば、「そもそもなんで働かなきゃいけないんだろう?」と、言ってもしょうがなさそうな疑問をとりあえず言ってみる。さらには「人類がもう働かなくなった世界」という言葉の並びだって、言えるには言える。言葉遊びとして。そこから、社会と経済のしくむを深く考え始めるかもしれません。

アイロニーの過剰化

そもそも○○ってなんだろうとか、本当にそうなんだろうかとアイロニー的に根拠を考える姿勢には終わりがない。真実の現実に触れたいという願望を持ってしまう。できないことなのに。いまいる環境の外には真実があるのではなく、別の環境があるだけなのです。

現状の環境の外に出ようを考えながらも、現実のそれ自体はないことを意識し、環境のあいだを言語を使って行き来する状態になる。

アイロニーは話を深める方向にもっていくが、現実それ自体にいはたどり着けず、無限に深めることができてしまうので、それを意識しつつ今の環境の言語から離れる。

ユーモア

比喩などのユーモアを使えばどんな話もどんなことにもつなげることができる。何を話しているのかわからなくなるほど、足場を増やしてしまうことになる。

通常は環境によって制限されている言葉の意味がどこまでも拡張してしまう。意味が飽和してしまう。

ユーモアは逆に意味を縮減する際にも使われている。あるアニメの話をしているとき、アニメの話で思い出や感想を共有し親睦を深めるという環境なのに、そのアニメのマニアックな細部、アニメ自体を語ってしまう。

みんなはえっ、そんな話だっけとなる。不必要に細かい話は自閉的な面がある。

これはあまりにもアニメの知識があるかつい語ってしまうという状態である。

アイロニー、ユーモアの有限化

アイロニーで話の根拠を求める方向を、ユーモアの方向に転回し、ユーモアの過剰化で会話の足場が増えすぎる。

勉強をする過程でも同じことが起きます。

○○に興味があれば、その周辺のこれもこれも知りたい。この分野を深ぼりたいと際限なく勉強したいことができてしまう。現実それ自体がないように絶対的な「最後の勉強」のようなものはないのだから、どこかでこのアイロニーとユーモアの過剰化を有限化する必要がある。

この有限化にもアイロニーとユーモアを使う。アイロニー的にこの分野にするんだと決断するだけでは、自分の軸というものがない。むしろ決断することで盲目的になってしまい他の可能性が見えなくなってしま本末転倒。

だから、ユーモア的にちゃんと比較したうえ、仮固定をする。仮固定しつつも日々比較を続ける。勉強を継続し、常に別の可能性を探る。仮固定はする。

現況とは小賢しく口ばっかりになることである。

とはいえ、勉強とは小賢しく口ばっかりになることです。

僕は確信をもってそう言いたい。

 勉強によってノリが悪くなる、キモくなる、小賢しくなる。勉強する以上、それは避けられない。それが嫌であれば、勉強を深めることはできない。
 筋トレで筋肉量を増やすときにあ、同時に脂肪もつくのと同じです。 

 勉強成果のアウトプットをうまくコントロールできず、適当に流しておけばよい状況でアイロニカルな、また変にユーモラスな発言を「やらかして」しまう。それは避けがたい。

 そんなふうにはなりたくないと思うならば、それは、勉強への大きな抵抗です。その抵抗を突破するために、少なくともある時期は、アイロンイカルな、ユーモラスな発言のやらかしを積極的にやろうとするくらいでいい、とすら言いたいのです。それが、勉強をドライブする。

その先で、自分のこだわりの部分を勉強によってバカさを変化させる。

 それなりに周りに合わせもしながら。多少もノリがぎくしゃくするときがあるとしても。
 ふたたび環境のなかへ、行為の方へ向かうーーーそれが、筋トレの比喩でいえば、勉強におけるキモさの「減量期」なのです。

すごくわかりやすかった。

 そのときに、来るべきバカと、たんに周りのノリに合わせているだけのバカを見分けられるでしょうか?その背後に小賢しさを畳みこんでいるバカと、ただのバカを。
 おそらく識別不可能になる。 
 こうしてゴールは振り出しにつながる。
 ただのバカに見える人が、来るべきバカでないとどうして言えるでしょう?

本書で一番面白かったところ。

勉強の仕方

本書では自分のこだわりを見つけ、どうやってそこから勉強していくかも紹介されていますが、今回は長くなるので一部だけ。

教科書は「このくらいでいい」という情報の有限化の役割で、あとはそこを軸として調べながら深めていく。教師も同じこと。いかに少なく教えるか。切断の装置となる。

教科書の理解も不完全でいい。仮固定から仮固定に移る。

教師となんか合うなというのじゃ教師が有限化する際の足場となるこだわり=享楽が自分とあっているということ。

勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けてい他者である。

自分用のメモ:

二項対立の揺さぶりについて、ジャック・デリダを参考にする

アイデアを出すために書く。アイデアができてから書くのではない。

 一見別々のことでも、実は「似たこと」として考えられる、という発想をもつ。
 こういう連想的=ユーモア的な発想は、集中してアイロニカルに問題の根本を探ることに比べて、リラックスした状態において展開されやすいように思います。

まとめ

勉強とは何なのか、その方法を知りたいと読んだ本でしたが、人間関係や生きることについても考えることになりました。

生きてて違和感を感じることが多い人や本当にこれでいいんだろうかと思う人は有用な気づきが得られはずです。

先にも書きましたが、本書には自分の享楽・欲望・こだわりを見つけそこからどのように勉強を深めていくのか知ることができます。
是非よんでください。

増補版がKindleUnlimitedでているみたいなので、また読みたくなったときにこっちも読もうと思います!

ちなみに読みたい本読んだ記事をnotionにまとめています。こちらもよかったらご覧ください。

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